ゼイトゥーン No.4

オリーブの会      الزيتونゼイトゥーン   2019年4月15日 電子版 No.4  

 

アフメド・アブ・アルテマ

2019年3月30日

 

 

 

『帰還のための大行進』は、いかにパレスチナの抵抗を復活させたか

私たちが1年前に始めた行進は、二つの最大の敵、パレスチナ派閥主義イスラエルの宣伝を打ち負かした。

 

私は、2018年3月30日、決して忘れられないことを目撃した。私はイスラエルが根絶した村や町の名前を冠した無数のパレスチナの旗を掲げ、異なる政治的党派とイデオロギー的背景を持つ何万人もの人びとが一つの大地に集まっているのを見た。

その日、パレスチナの人びとの間の分裂は消えた。そして、人びとは彼ら・彼女らの譲渡不可能な「帰還の権利」を要求するために集まった。『帰還のための大行進』は、自由のためのパレスチナの闘争の新しい章を開いた。それはパレスチナの人びとにイスラエルの占領に反対し集団的に立ち上がる新たな機会を与えたのだ。

それ以来、私たちは平和的な抵抗のために重い代償を払ってきた。実弾で266人のパレスチナの人びとが殺害され、6,557人以上が負傷した。124人は手足を切断した。

しかし私たちは頑張った。毎週金曜日に、私たち何千人もの、女も男も、若きも老いも、イスラエルとの国境フェンスに流れ続け、私たちは、自らの故郷に戻るために「帰還の権利」を要求し、“ガザ回廊刑務所”という壁の中で静かに殺されることを拒絶するために抗議した。

『帰還のための大行進』が私たちの抵抗の精神を再燃させ、私たちに力を与え、私たちをより強くより統一させた。

私と私の友人が最初に1年以上前に『行進』の着想について議論し始めたとき、私は私たちがそのようなことが達成するとは思っていなかった。

2018年10月19日、ガザのイスラエルとガザの国境フェンスで、ある女性が故郷に帰る権利を要求する抗議中にパレスチナの旗を握った。

この着想は、パレスチナでの民衆の抵抗が大きく後退したときに思いついた。2005年の第2次インティファーダが終焉して以来、散発的な抗議行動はあったが自発的な大きな運動はなかった。その代わりに、さまざまな政治党派が計画したデモが街を支配し、彼らのメンバーと支持者を集めた。政治的な方針に沿って組織されたそのような行動は、多くのパレスチナの人びとを受動的な傍観者に変え、彼ら・彼女らを疎外した。

それらの抵抗運動は、党派化し、民族的な大義に決して利益をもたらさなかった。占領は、特定の政治党派だけではなく、パレスチナの人びと全体を標的にしたものであり、民族的な闘争はすべてのパレスチナの人びとが関与する場合にのみ成功することができるのだ。

さらに、2008年、2012年、そして2014年のイスラエルのガザ戦争は、武装勢力へと注目が集まり、民衆の抵抗闘争は表舞台から遠ざけられた。これらの軍事的対立はまた、イスラエル武装勢力からの攻撃から身を守るという口実のもと、パレスチナの住民に対する過度の武力行使を正当化しようとする試みを倍増させた。その結果、国際的な関心はイスラエルの人権侵害から離れ、安全保障の見せかけに焦点を当てしまった。これはさらに普通のパレスチナの人びとと彼ら・彼女らの占領終結と「帰還の権利」への要求を関心の外に追いやった。

しかし、これらすべては『帰還のための大行進』で変わった。

『帰還のための大行進』がここ数年の抗議運動や対決と違うものがなにかといえば、大衆的で平和的な性格だけでなく、その始まりにある。『行進』のための着想はガザの青年たちからもたらされた。私の友人と私は主導権を握って、ソーシャルメディア上にその着想を発信し広めた。普通のパレスチナの人びとが、『行進』について議論し、パレスチナ社会のすべての人びとが採用することができる、なにかに熟成させ変えるのを手助けした。

『帰還のための大行進』は、人びとが考案した計画として、党派間の境界を切り開き、統一戦線を築くことに成功した。『行進』は、パレスチナの人びとが伝統的な党派の活動の中で居場所を見つけられずにいたのを、彼ら・彼女らのエネルギーを解き放った。

いかなる政治的な組織に参加していなかった個人や家族は、過去、他の多くの抗議行動の中で自分たちの場所を見つけることができないと感じていた。その彼ら・彼女らがこの『行進』に積極的に参加した。市民社会団体や活動家も参加し、大同団結したのだ。

『帰還のための行進』はまた、パレスチナ内部の悲惨な政治状況に幻滅し脱政治化していた多くの若者を引き付け、彼ら・彼女らの抵抗の精神を再燃させた。それは、パレスチナの新しい世代がパレスチナの「帰還のための闘争」を受容するのを手助けした。

『行進』は、その大衆的な要求と平和的な性格とともに、ガザを「安全保障問題」として提示するというイスラエルの努力を根底から打ち崩すことにも成功した。絶え間ない抗議行動は、イスラエル占領当局にとって、狼狽、苛立ち、および難局の源となっている。

イスラエルが『帰還のための大行進』へ激しく対応するのは、パレスチナの人びとが平和的な闘争手段を採用することを望んでいないことを証明した。イスラエルは、私たちの平和的な抵抗がパレスチナの人びとを侵略者として描いてきたプロパガンダの努力を損なう可能性をもつことを恐れ、イスラエル国民に直接の脅威を与えないデモ隊を攻撃することを選んだのだ。そしてイスラエル兵士たちが、平和的な抗議者を殺害し、鎮圧し、沈黙させた時、イスラエル国家は犠牲者に流血の責任を負わせようとした。

しかし今回は、占領者たちは成功していない。この『行進』によって、世界中で、ますます多くの人びとが、私たちの苦境を見、私たちの自由と尊厳に対する要求を聞くようになったのだ。

『帰還のための大行進』は平和的な闘争の概念への信頼を回復した。武装抵抗が占領に弾丸で対決するならば、平和的な闘争は言葉の力と正義のための運動で占領に対決する。

イスラエルは軍事力を持っているかもしれないが、それは道徳的に弱いのだ。軍事力は人びとを追い払い、その土地を占領し、今日に至るまで私たちの自由と尊厳を奪い続けている。それゆえ、パレスチナの人びとは、この闘争に道徳的に高い基盤を持っており、彼ら・彼女らの平和的な抗議行動は他のいかなる武器よりも強い打撃をイスラエルにもたらした。

私たちの『行進』が始まってから1年のち、私は、悲しみと決意が混ざり合っている。私たちはこれらの平和的なデモのために多くのパレスチナの人びとの命と身体の犠牲を払った。イスラエル兵士が放つ一発一発の弾丸が抗議者の一人ひとりを打ち抜いた、そのとき、私たちは民族として苦しみと悲しみを倍加した。しかし、私たちは70年間あきらめず、今もそうするつもりはない。

『帰還のための大行進』は、何十年にもわたる占領、攻撃、強奪に対する誇り高い民族の応答である。私たちは、この平和的な立場をとることによって、イスラエルが私たちを一掃しようとしたにもかかわらず、私たちはいまだに強く立派に団結していることを世界に示しているのです。

出典:ALJAZEER.COM

 

 

OCHAoPt 人道報告書(2019年1月)

エルサレムではパレスチナ人家族が即時退去に直面している

国連人道調整官は立ち退きを止めるよう求めている

エルサレムでの最近の展開では、イスラエル人入植者団体との長い法的闘争の末、シェイク・ジャッラー近郊に住むパレスチナ難民一族が即時強制退去の危険に晒されています。Sabbagh一族は現在、6人の子供を含む32人が一族の家に住んでいます。サッバグ一族がその家を失うことで、彼ら・彼女ら以外に少なくとも19人の一族が影響を受けるでしょう。この立ち退きはジュネーブ条約(第四条約)で禁止されている強制移住に該当する重大な違反かもしれません。国際法に反する強制立ち退きは、適切な住居の権利およびプライバシーの権利も侵害し、その他の人権とも相反する可能性があります。

サッバグ一族とその隣のハンマド一族は、自分たちの家がある土地を二つのイスラエル団体が所有しているという判決に対し異議を申し立てた訴訟を起こしていました。2018年11月15日、イスラエル最高裁判所は、この異議申し立てを棄却しました。サッバグ一族はイスラエルの法執行・徴収当局から、1月23日までに家を明け渡すようにと通知されました。そうでなければ、彼らは強制退去に直面します。現在法的手続きは終わりましたが、1月14日、当局は手続き上の理由で立ち退きを一時的に遅らせる要求を受け入れました。

1月22日、占領パレスチナ地域の国連人道調整官Jamie McGoldrickが、他の国連職員やNGOの協働者と共にサッバグ一族を訪問し立ち退きを中止するよう求めました。

司法手段による立ち退き

1948年の第1次アラブ・イスラエル戦争の結果、サッバグとハンマドの家族はそれぞれヤッファとハイファの家を失いました。彼ら・彼女らは、1956年のヨルダン王国国際連合パレスチナ難民救済事業機関UNRWAとの合意によって、カルム・アル・ジャウニ地区にあるジェイク・ジャッラーの住宅事業で収容されたパレスチナ難民家族28人の中にいました。1948年以前には、ユダヤ人の家族もシェイク・ジャッラーに住んでいましたが、1948年の戦争状況の中で逃げ出し、その後イスラエル政府によって家を失ったことで補償されました。

イスラエルは1967年に東エルサレムを占領し、その後併合しました。1970年にthe Legal and Administrative Matters Lawを制定しました。この法律は、イスラエル人は1948年にイスラエル国家が設立される前に東エルサレムユダヤ人が所有していたとされる土地と財産の請求を追求することができるというものです。 サッバグ一族などの難民は現在、イスラエルにある土地と財産を取り戻す権利を拒否されていますが、ヤッファにある彼らの家は元のまま立っています。

1970年の法律に従い、オスマン帝国の土地文書に基づいて、二つのイスラエル団体がカルム・アル・ジャウニの土地を登録しましたが、これらの行為の信憑性はパレスチナ人家族によって争われています。これらの組織は、この地域での権利を、米国で登録されている民間企業であるNahalat Shimon Internationalに売却しました。ナハラト・シモン・インテーナショナルは、シェイク・ジャッラーからパレスチナ人の家族を追い出すために長年にわたって複数の訴訟を起こしてきました。

 

シェイク・ジャッラーは東エルサレムの入植者活動の中心地

ここ数十年、イスラエル当局の支援を受けて、イスラエルの入植者団体は、東エルサレムパレスチナ人居住地区の土地の支配権を握り、そこにいくつかの集合住宅型の入植拠点を設立しました。シェイク・ジャッラーに加えて、そのような入植拠点は旧市街のムスリム地区とキリスト教徒地区、Silwanシルワン、At-Tur(アットゥル:マウントオブオリーブ)、Wadi Jozワディ・ジョズ、Ras al 'Amudラス・アラムド、Jabal al Mukabbirジャバル・アル・ムカッビルに集中しています。 2016年にOCHAが実施した調査によると、東エルサレムには180のパレスチナ人家族に対して退去を求める訴訟が起こされています。その訴訟のほとんどは入植者団体によって開始されています。それ以来、パレスチナ人の8家族、子ども19人を含む43人が、Beit Haninaベイト・ハニナ、シルワン、旧市街、シェイク・ジャッラーの彼ら・彼女らの家から追い出されました。引き続き、パレスチナ人家族に対する新たな立ち退き訴訟も提起されています。2019年1月の時点で、パレスチナ人の199家族に対し、立ち退き訴訟が起こされ、そこに住む399人の子供を含む877人が追放の危険に晒されていると推定されています。

シェイク・ジャッラーは、1949年の停戦ライン(グリーン・ライン)と旧市街(地図1参照)に戦略的に近接しているため、入植者活動の主要な標的になっています。この地域はすでに、警察と国境警察本部、法務省、そして新しい国民保険ビルなどのイスラエル政府施設の敷地となっています。1967年にイスラエル当局はザ・シェパード・ホテルを接収し、その敷地には新しい入植地が建設されました。 シェイク・ジャッラーの別の土地区画では、入植者団体であるアマナ・アソシエーション(Amana Association)が新しい建物を建設し、2018年8月に本部をそこに移動しました(地図2参照)。

2008年末に、イスラエル当局は、20人の子供を含む55人のパレスチナ人をカルム・アル・ジャウニ地区の自宅から強制的に追い出しました。彼ら・彼女らは、1948年以前にユダヤ人の個人または団体がその場所を財産として所有していたという主張に基づいて、補償もなく代替住居を準備することも許されずに追い出されたのです。これらの建物は、イスラエルの団体が土地を所有していたとされていた時期の後、1956年に建設されたにもかかわらず、イスラエル当局によって直ちにイスラエル人入植者に引き渡されました。

1月31日現在、カルム・アル・ジャウニに住む26世帯(100人近くで構成され、そのうち30%が子供)は、複数のイスラエル人入植者団体によって立ち退き訴訟を起こされています。イスラエル人入植者団体は、その訴訟で、主に賃貸料の未払い、必要とする建築許可なしに増築したことを申し立て、その家族たちが近隣の住民に対する不安や脅威となる振る舞いに責任があると主張しています。

入植者たちは、エルサレム自治体に提出された計画によると、最終的には少なくとも200戸の住宅からなる新しいイスラエル人入植地建設に道を開くために、カルム・アル・ジャウニのすべての不動産を破壊するつもりです。

入植者団体はまた、シェイク・ジャッラー西部にあるクバニヤット・イム・ハロウンを標的にしています。2017年9月、シャマスニー一族は、最高裁の強制退去命令の後、この地域で1964年から住んでいた彼ら・彼女らの家から追い出され、入植者たちがシャマスニー一族の家を手に入れました。2017年7月、エルサレム地域計画委員会は、クバニヤット・イム・ハロウンにおける4つの計画を含む、新しい入植ユニットの計画について議論しました。そのうちの二つ計画では、二件の住居用建物の解体を想定しており、パレスチナの17世帯74人が退去の危険にさらされています。同時に、地域内の35世帯に対しても個別で立ち退き訴訟が起こされています。その対象となるのは、約140人でそのうち3分の1以上が子供たちです。

パレスチナ人家族への立ち退きの影響

立ち退きに直面したパレスチナ人家族は、身体的、社会的、経済的、そして感情的な影響を受けます。パレスチナの人びとは、立ち退きによって、主な財産であり、物理的および経済的に自らの安全を保障する住居を奪われるだけでなく、しばしば生活の混乱、貧困の増加および生活水準の低下に晒されます。さらにこれらの訴訟に対する弁護で生じた高い訴訟費用は、パレスチナ人家族に、ただでさえ乏しい家計に重くのしかかります。とりわけ子どもたちは、この衝撃で、心的外傷後ストレス障害うつ病、不安、学業成績の低下など、心を荒廃させられています。

集合住宅型の入植拠点がパレスチナ人地域の中心部に設立されたことで、これらの入植拠点の近くに住むパレスチナ人の生活は日常的に包囲された環境を強いられ、彼ら・彼女らはその土地から退去するよう圧力がかけられています。この包囲された環境は、主要には、緊張、暴力、逮捕の増加、移動と交通の制限(特にユダヤ教の祝日の間)、民間警備員と監視カメラの存在によるプライバシーの低下によって作りだされています。